17 私の後でボソボソと喋る男の言葉を否定したか弱い声は、間違いなく妻の恵だ。 いきなり心臓の音がバクバク鳴り始める。 首筋から背中が金縛りにあったように固まっている。 コーヒーカップを両手で押さえながら、後ろを振り向こうにも振り向けない。 「でも×××に正直に・・×××もまた・・」 「・・・・・・・」 切れ切れに聞えた会話はそこで一旦止まり。 2人の沈黙が私の背中を射抜いてくる。 わずか数秒の時間がとてつもなく長く感じる。 「じゃあ・・」 その男の声と、ガタガタ椅子を引く音が、再び首筋に緊張を走らせる。 私は恐々後を振り返った。 自動ドアが開き、背中を向けている男女の背中が目に映った。 透き通る扉の向こうで、唇を噛み締めている女性が小さく頷いた。 恵・・・・。 それを確認した男が、背中をゆっくり向け反対方向に歩き出す。 波多野・・・・。 私の金縛りがやっと解けてくれた。 外に出た私は左手の方角を見つめる。 ライトグリーンの秋物のコートを着た、恵の背中が遠ざかっていく。 私は踵(きびす)を返し、反対方向に歩き出していた波多野の背中を追いかけた。 目の前を足早に歩く男 波多野。 何の目的でこの男を尾(つ)けているのか、それさえも自分で分からず、ただ何かをしなければ・・何かをしていなければ・・止まってしまえば気が狂いそうな気がしていた。 この男はやはり若いのか。 私の老いをあざ笑うかのように、軽やかなステップを踏み込むように進んでいく。 商店街のような通りを抜け、男はマンションへと入っていく。 オートロックの向こうに消えていく背中を見つめ、自分の息がきれている事に気づく。 クソっ・・・。 何に向ってそう言ったのか。 自分の体力の衰えに対する言葉か、それとも男の今いる場所を確認しながらも、問い質(ただ)す材料も勇気も持ち合わせていない自分を罵(ののし)った言葉か。 私のしている事は、滑稽な事か。 冷たい風が首筋をスウッと通り抜ける。 しばらくして、胸ポケットから振動音が伝わった。 メール・・・。 《体の具合はどうですか? 夕飯はお鍋です。。。。楽しみにしてね》 恵・・・・。 私はやり場の無い気持ちを抱えたまま駅へと引き返す。 結局 何をしたかったのだ、私は・・・。 妻が・・・恵が・・・男と会っていた。 前の旦那の助手をしていたと言う男と・・。 問い質すのか・・・今晩。 男と会った理由は・・・目的は・・・恵に聞けるのか。 偶然見かけたなんて言えるのか。 携帯を覗いたなんて言えないだろ。 電車に揺られ、脳みそが揺れ、頭の中がちょっとしたパニックに陥(おちい)ってる。 クソ! もう一度その言葉が口を付いた。 社に戻った私は、その雰囲気に笑顔を作ろうとする。 しかし、口元からこめかみまでがピクピクするのが自分でもよくわかる。 そんな私を救ってくれたのは、奴からの電話だった。 『山本、どうや 体調の方は? 風邪ひいてたらしいな』 「ああ 塩田・・・体調は大分良くなってる・・・・でも・・」 直ぐに声のトーンが沈んでいく。 『ん!? やっぱり元気が無いな、あれか? 恵ちゃんの事か』 「あっ ああ・・」 『・・そうかい ・・それでな 今日電話したのは、波多野の事やけど』 ビリ!っとした痛みが喉に走った。 『電話じゃ あれやから “みゆき”で話すか? 鍋でも突付きながら』 うっ! と 一瞬息が詰まりそうになる。 「い・・いや 今夜は・・」 『・・そうか ・・そしたら簡単に言うとくけど、来週の月曜日 時間取れるか? 京子さんの店に波多野が来るらしいぞ』 「えっ!!」 社内の人間が一斉に私を見る。 『思い切って直接聞いてみるか、波多野に』 「・・・・・・・・」 『どうや?』 「う・・んん」 どっちともとれそうな、そんな音が吐き出された。 |